世の中で起こる おかし〜なと思ったことを書いてみます。
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http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090629-OYT8T00010.htm?from=dmst3 新聞の記事のことですから、詳しくは書いてありませんが、
今城塚は1997〜2006年度、高槻市教委の発掘調査で、築造時期が継体天皇の没年(531年)と一致することが確実となった。さらに、〈1〉国内最大級の埴輪(はにわ)祭祀(さいし)場〈2〉「阿蘇ピンク石」という特殊な石材を石棺に使用〈3〉横穴式石室の基礎になる大規模な石組み――など、大王墓にふさわしい内容が次々と明らかになり、考古学的にも継体陵の可能性が高まった。 これだけが、根拠です。文章を書いた関口和哉記者は、今城塚古墳が継体天皇の御陵だとは断定しないで、「大王墓にふさわしい内容が次々と明らかになり、考古学的にも継体陵の可能性が高まった」と書いておられます。 根拠の一番は、築造時期が継体天皇の没年(531年)と一致することが確実となったと書いてありますが、おかしい文章です。墓誌がみつかり、そこに、崩御の日と年齢が書いてあったのでしたら、確かですが、発掘では分かりません。 きっと、「太田茶臼山古墳」は、531年より古いとされているからだと思います。 この根拠は、日本書紀に拠っておられると思います。 日本書紀では、二十五年春二月、天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。時に八十二歳であった。冬十二月五日、藍野陵に葬った。 古事記では 「天皇の御年、四十三歳。(丁未の年四月九日に崩りましき)御墓は三島の藍の御陵なり」 とあります。 どうして、こんなに年齢が違うと思われたことはあますか。 日本書紀では、藍野陵に葬ったとあり、古事記では、三島の藍の御陵なりとあります。表現は違いますが、私は、両方とも「藍」という字が使われているのが、気に入りません。どうしてかと、云いますと、日本書紀は古事記を参考にして作られたらしく、同じ漢字を使ってあることは殆どありません。字を変えています。 御陵の地名は、「安威」だったと思います。その証拠に、現在でも安威と安威川という名前が残っています。日本書紀では、三島という地名も使われていません。元々、「安威」だったとしますと、古事記は「安威」と書かれて、日本書紀では「藍」と書かれた筈です。 このようなことから、古事記は、後世に書き換えた人がいたことになります。 ところが、記者の関口和哉氏は、次のような文章を書いておられます。 〔それだけではない。継体陵の所在地は、律令の施行細則「延喜式」(927年)に「摂津国島上郡」と記されている。今城塚は「島上郡」にあるが、太田茶臼山は「島下郡」。天坊氏は郡境を突き止め、今城塚こそ継体陵にふさわしいと説いた〕と書いて、律令の施行細則「延喜式」に書いてあるから、正しいのだと云っておられます。 日本書紀が出来たのが、720年です。それから200年経った927年は、藤原氏の天下です。 藤原不比等が、傀儡政権を誕生・完成を祝って、記念に作られた本が日本書紀です。その前に、645年に日本書紀を制覇した記念の大化改新があります。中国の元号を始めて採用した年です。 この延喜式の中に、一般に式内社と称される神社を制定して、3000ほどの神社の名前が、記されています。 ここには、天皇家の祖先を祭る神社は掲載されていません。出所が判らない神やスサノオが祀られています。 古事記が編纂されてから、古事記を無きものにするために、藤原不比等はあまりにも働き過ぎました。日本書紀が完成と同時に、死んでいます。 その後、風土記の編纂のために、全国から、国情を報告させました。そして、200年かかって、式内社を制定、その他の諸々の制度を完成させました。風土記は、観光案内ではありません。地名と距離が詳しく書かれています。軍事機密です。 古事記に書かれてある継体天皇の記事の少なさ、これを説明する為に、日本書紀はィッパイ文章を書きました。まだ、足りなくて、葬らてたところを、律令の施行細則「延喜式」(927年)に「摂津国島上郡」と書きくわえたことになります。 日本書紀を採用するのも間違っていますし、「延喜式」を採用するのも間違っています。 三島の「安威」はどこにあるか確かめてください。 |
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高木博志氏が〈元ヨリ陵墓タリシモノニシテ、然(しか)モ陵制宏大ナルヨリ考フレハ高貴ノ陵墓タルコトヲ知ルヲ得ヘシ〉。このように、今城塚周辺にある「陪塚」(現在は陪塚と認められていない)の保護を訴えておられたことは大切だと思います。その高木博志氏が、
天坊幸彦氏が「今城塚を文化財として保存しようとした嚆矢(こうし)」と見られたということは、お二人の歴史に対する考え方が随分違うことが判ります。 どちらが正しいのか判断しかねませんが、お二人が、それまでに、どのような研究をされたかで、本当のことを知ることができます。 記者の関口和哉氏は、最後に、 「堺市などが仁徳天皇陵(大山古墳)をはじめとする陵墓を含む、百舌鳥(もず)・古市古墳群の世界遺産登録を目指す今、陵墓の多様な在り方を改めて実感した」と結んでおられますが、新聞記者としては、最近にない広い見方をされていると思います。 私、個人的な考えでは、最近の日本人は、あまりにも歴史を町おこしに使い過ぎるように思っています。暫く、世界遺産登録は中止して、頭を冷やすべきだと思います。 さて、〔継体陵の所在地は、律令の施行細則「延喜式」(927年)に「摂津国島上郡」と記されている。今城塚は「島上郡」にあるが、太田茶臼山は「島下郡」。天坊氏は郡境を突き止め、今城塚こそ継体陵にふさわしいと説いた〕の部分です。 天坊氏は郡境を突き止めと書かれていますが、どのようにして突き止められたのか、知りたいものです。 私でしたら、「太田茶臼山古墳」と「今城塚古墳」のどちらが、継体天皇の墳墓かではなく、どうして、こんなに大きな墳墓が近くにあるのだろうかの方が、興味があります。 また、高木博志氏が云っておられるように、「陪塚」の保存は重要です。 「太田茶臼山古墳」の周りを歩いてください。そして、その後、「今城塚古墳」まで歩いてください。どれだけ近いかが判ります。 近くに巨大古墳が造られた時は、どのように考えたら良いでしょう。たとえば、二代続いて造った。古いものより自分達の方が、大きいのだと競争した。いくらでも考えることができます。 本当は、大きい方が立派だとか、権威が上だったとかにはなりません。古墳の研究は、まだまだ、これからだと思います。 古墳時代のはじめのころは、大きくて、次第に小さくなっていったのが自然のように思いますが…。その代表が、だれのものか判っていませんが、奈良桜井にある箸墓古墳だと思います。誰でも、前までは行きますが、ぐるりと一周しますと、別のことが判ります。 なにが判るかと言いますと、歩いた人によります。 |
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No5幻の陵墓参考地の続きです。
記者の関口和哉氏は、茨木市の「太田茶臼山古墳」(5世紀中頃)が継体天皇の陵墓だったのが、どうして、今城塚古墳になってきたかを調べて書いておられます。 〔 宮内庁は、茨木市の「太田茶臼山古墳」(5世紀中頃)を継体陵とするが、大正から昭和初期、今城塚を継体陵とみて陵墓参考地の指定も検討していたことが、研究者の調査で明らかになった。同庁の陵墓指定古墳は現在、原則立ち入りも許されていない。しかし、今城塚は市が2011年春の完成を目指して史跡公園整備を進めており、事実上、公園として一般開放される唯一の大王墓(天皇陵)となる。真の継体陵とされるに至る、経緯をひもといてみた。(関口和哉)〕 関口氏は、この後、経過を調べられて、次のようなことを書いておられます。 〔高木博志・京都大准教授(近代史)が、宮内庁所蔵の文書を調査したところ、戦災で焼失した「府庁文書」の写しが残されていた。府知事が、1922年(大正11年)に内務大臣あてに起案した文書だ。〕 少し長いですが、続けて経緯を記します。 〈元ヨリ陵墓タリシモノニシテ、然(しか)モ陵制宏大ナルヨリ考フレハ高貴ノ陵墓タルコトヲ知ルヲ得ヘシ〉。このように、今城塚周辺にある「陪塚」(現在は陪塚と認められていない)の保護を訴えていたことがわかった。 高木准教授は、府史蹟(しせき)調査委員の天坊幸彦氏が原案を作成したとみて、「今城塚を文化財として保存しようとした嚆矢(こうし)」と指摘。それだけではない。継体陵の所在地は、律令の施行細則「延喜式」(927年)に「摂津国島上郡」と記されている。今城塚は「島上郡」にあるが、太田茶臼山は「島下郡」。天坊氏は郡境を突き止め、今城塚こそ継体陵にふさわしいと説いた。 これを受けた形で29年(昭和4年)、当時の宮内省の陵墓考証担当者が、内部文書で今城塚が真の継体陵と主張。36年(同11年)には宮内大臣の諮問に、同省の臨時陵墓調査委員会が「今城塚を陵墓参考地に編入すべき」と答申した。 だが、58年。国史跡に指定されたが陵墓参考地にはならなかった。その理由を高木准教授は「歴代の天皇陵すべてが19世紀の学知に基づき治定され、その体系が変更なく、凍結されてきたため」と説明。1881年の天武・持統合葬陵以来、陵墓の指定変更はない。一つ認めれば次々に変更を余儀なくされる恐れがあったため、と推測できる〕 如何ですか? 天坊幸彦という方が、今城塚古墳が継体天皇の墳墓と主張され、それとなく、高木准教授は、用心しなければいけないような雰囲気があったことを書いてあります。 幻の陵墓参考地の件は、昭和58年に決着がついていたことになります。これが、現在の公園整備に発展することになりました。 もし、この時に、陵墓参考地に指定されていましたら、発掘は自由に出来ません。ところが、ただの誰かのお墓ということで、高槻市が自由に発掘して良いことになりました。10年の発掘と研究の結果、今城塚古墳は、継体天皇の墳墓だと決定して、公園にして保存することになりました。 長くなりましたので、次回、 〔継体陵の所在地は、律令の施行細則「延喜式」(927年)に「摂津国島上郡」と記されている。今城塚は「島上郡」にあるが、太田茶臼山は「島下郡」。天坊氏は郡境を突き止め、今城塚こそ継体陵にふさわしいと説いた〕の部分の感想を書きます。 |
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西伯郡逢坂村大字塩津字宮ノ前 地図
http://www.jinja.in/single/86685.html 鎮座地 鳥取県西伯郡大山町塩津684番 祭神 天照大神、素盞鳴尊、倉稲魂命 由緒 創立年代不詳、往古は該村の産神にして村社と崇敬奉祀す、故に中古迄逢坂別社妙剱大明神と号す、往昔毛利元就崇敬ありて社殿再建の挙あり(天正十九年遷宮の記に見ゆ)然れども其前後の事不詳、慶応四年九月鹽津神社と改められ逢坂八幡神社の摂社となる、合祭倉稲魂命は本村内字古宮に祠宇ありて稲荷大明神と称せしを、慶応年中本社に合祀せらる。 例祭日 10月9日 建造物 本殿、拝殿、神楽殿、随神門 境内坪数 963坪 崇敬者戸数 65戸 |
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幻の陵墓参考地
「真の継体天皇陵」高槻・今城塚古墳 上の二行は読売新聞の大阪版(地域)の中の「大阪」の極限られた地方向けの記事記事のタイトルです。下半分が、広告ですから、一面の4分の1 を占めています。タイトルは重要ですから、活字の大きさを写真でご覧ください。 ![]() 写真の上に、「真の継体天皇陵」高槻・今城塚古墳と書いてあります。 全国の方には どうでも良い話ですが、私は日本の歴史を誤って理解する話の一つではないかと思っています。 今朝、新聞を読んだ時に、このことを書こうと思いながら、この長い文章をコンピューターで入力しなければならないと思って、止めておこうかと思いました。 ところが、WEBを見ましたら、掲載されていましたので、書く気になっています。 上に掲載しました図は、全体のイメージとして捉えてください。普通は、これを見た時には、大きいタイトルの幻の陵墓参考地 は、筆者がもっとも訴えたかったことのメインになる部分です。 新聞のタイトルですから、これで、なにが書いてあるか解るような仕掛けになっていますが、なんのことか判りません。 そこで、サブタイトルが物を言います。 <「真の継体天皇陵」高槻・今城塚古墳> と<進む公園化、歴史身近に> です。これで、少し、意味が判ります。 もう少し、説明を加えますと、 幻の陵墓参考地と言われていました 高槻の今城塚古墳は、真の継体天皇陵であることが判りました。そこで、発掘調査が終わりましたので、それを記念にして、公園化されることになりました。これで、歴史が身近なものになります。 冒頭の文を転記しますと、 〔 〈真の継体天皇陵〉と呼ばれる高槻市の「今城塚古墳」(6世紀前半)。宮内庁は、茨木市の「太田茶臼山古墳」(5世紀中頃)を継体陵とするが、大正から昭和初期、今城塚を継体陵とみて陵墓参考地の指定も検討していたことが、研究者の調査で明らかになった。同庁の陵墓指定古墳は現在、原則立ち入りも許されていない。しかし、今城塚は市が2011年春の完成を目指して史跡公園整備を進めており、事実上、公園として一般開放される唯一の大王墓(天皇陵)となる。真の継体陵とされるに至る、経緯をひもといてみた。(関口和哉)〕となります。 筆者の関口和哉は、真面目に、調べて書いておられますから、後はWEBから読んでください。 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090629-OYT8T00010.htm?from=dmst3 極く地方の話題ですが、全国の方は、読む機会がないと思いますので、ここに掲載しました。 どこに掲載しようかなと考えまして、現在、もっぱら、鳥取県の神社について、記録を残すために、使っています資料置場にしようと思いました。 すると、古いことですが、カテゴリーの中に、歴史のこと (4) があり、継体天皇のことを書いていましたので、この続きにすることにしました。 ここには、報道の仕方に、いちゃもんをつけています。文句言うのが好きな私です。こんな奴がおるかぐらいの気持ちでお付き合いいただければと思います。 次回は、幻の陵墓参考地の中身についての私の疑問を述べてみます。 H21.06.29 |


