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世の中で起こる おかし~なと思ったことを書いてみます。
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娘の心奪い熊襲平定・日本書紀
産経新聞は、平成28年11月4日付けの朝刊の一面に、「娘の心奪い熊襲平定」と大きなタイトルを掲げて、第12代の景行天皇が九州の熊襲を討伐した時の事を紹介しています。

この記事は、連載で、≪ヤマトタケルのまほろば≫  第11部 父の親征と慰霊<2>
です。
 日本書紀は、難解な所が有りますので、産経新聞の記者が、判り易く、書かれた記事が、次のものです。

熊襲には二人の娘がいましたが、天皇は姉妹を召しだし、姉に偽りの寵愛を与えた、と日本書紀に書く。一乾鹿文は進んで、父の暗殺に加担した。父に強い酒を飲ませ、寝入ったところを天皇の兵に殺害させたのだ。日本書紀はさらに、天皇の過酷な処置も記録する。

それに、宮崎県教育庁文化財課の北郷泰道専門主幹のおはなしも交えて、記事は、一面の4分の1を飾っています。

 これだけでは、文意がお解りにならないでしょうが、熊襲を討伐するにあたって、軍議を開いて、熊襲の二人の娘を騙して、父を殺させたと日本書紀に書いてあります。

「こうして、外部勢力だった熊襲は、政権内に取り込まれ、やがて隼人と呼ばれるようになるのです」
 北郷氏はそう話す。

と記事は、北郷氏の歴史感で終わっています。

それで、このおはなしの何処がおかしいのかと云うことになります。

「北郷氏はそう話す」が無ければ、産経新聞の一記者の日本書紀の読後感で終わりですが、
「宮崎県教育庁文化財課の北郷泰道専門主幹」と書かれていますと、読んだ人は、この記事全体を信用することになります。

景行天皇の熊襲討伐は、古事記にも書いてあります。古事記も、騙した話は書いてあるのですが、騙したのは、景行天皇ではなくて、討伐に向かった小碓命です。
小碓命は叔母の服を身に着けると、結っていた少年の髪型を解き、少女の髪型に梳(くしけず)て、女装し、宴会に向かう少女たちに紛れ込んで館への潜入します。そして、殺す事になります。

こんな計画で、成功するでしょうか。 古事記の方は、作り話でしょう。

所が、日本書紀の方は、主犯は、景行天皇です。天皇が、このような卑怯なことをしたということを、日本の正史と云われる日本書紀が書くでしょうか。

おかしいと思われませんか?

しかし、産経新聞社が、一面に書かれたのですから、日本書紀には、街買いなく、このようなおかしい話が載っていたのですね。

日本書紀の方も、実際の話ではなくて、作り話と考えませんと、矛盾だらけです。

日本書紀は、正史でないとしますと、矛盾は無くなります。

景行天皇を悪く思わすために、熊襲の記事を書いたことになります。何のためにかと云いますと、古事記に書いてあることは嘘ですよと知らせる為に・・・・・。

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基調講演「式年遷宮について」山折哲雄氏(宗教学者)
第34回式年遷宮奉祝記念シンポジウム 2015年1月10日のタイトルで、読売新聞に掲載された記事の一部です。
 
基調講演「式年遷宮について」山折哲雄氏(宗教学者)

原点は記紀神話
 伊勢神宮と下鴨神社で行われる式年遷宮は構造的に大きな違いがあり、その原点は記紀神話にさかのぼります。神話によると二つの領域における神々の活動が語られています。ひとつは高天原で活動された後、一時的に姿をかくす、死ぬことのない「天津神、もうひとつはお亡くなりになって地上の陵に葬られる「国津神」です。 
 伊勢神宮の主祭神である天照大神は国家の神でありますが、皇室の祖神でもありますが、永遠の神々の世界から地上に下られた国津神をお祭りする神様でもあります。歴代の天皇は死によって新たな天皇が誕生し、死と再生を繰り返します。従って伊勢神宮では国家のあり方を方向づける遷宮方式を取り、「死と再生の儀礼」になっています。
 一方、下鴨神社の神々は本殿を改修・改築している期間は仮殿、いわば御旅所に一時的に滞在していただく遷宮方式を取っており、天津神の神々の運命と深い関係があります。ここでは死の気配が消去され、天津神は「永遠に担保された神々」であると考えられます。下鴨神社では神様が御旅所におられる間は国民が様々な芸能を披露し、神様に楽しんでいただこうという奉仕精神が背景にあります。
 つまり、伊勢神宮は国家を軸とした遷宮であるのに対して、下鴨神社は国民を軸としています。国家から国民レベルまで様々な祭りのあり方を生み出してきた意味を考える時、私は改めて日本文化の奥深さを実感します。天皇の皇位継承に関わる儀礼と神祭りという宗教儀礼が背中合わせになっていることで、日本は世界に例を見ない平和な時代が長く続き、祭りと芸術と宗教の幸う(さきわう)国になりました。その背景に、遷宮という二つの方式を作り出してきた日本国民の深い知恵を感じるのです。今年から来年にかけての下迦茂神社の遷宮を改めて見直す事で、千年、千五百年の歴史を考える時期に私たちは来ているのどはなすかと思います。


■主催: 賀茂御祖神社(下鴨神社)、(公財)世界遺産賀茂御祖神社境内糺すの森保存会
■共催: 読売新聞
■後援: 京都府、京都市、京都商工会議所

第34回式年遷宮奉祝記念シンポジウム
http://takuminokoto.com/?p=2938
この催しは、平成26年11月24日に、賀茂御祖神社で行われたものです。
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方形周溝墓とは
次のような特徴を具備している古墳であると書いておられます。
 『台状墓の世界』但馬考古学研究会・両丹考古学研究発表会交流二十周年記念大会の記録
79ページからです。
 筆者は、京都府埋蔵文化財調査研究センター 藤井 整氏です。

タイトルは、---近畿地域からみた丹後・但馬の特質---
この日の記念大会のテーマは、『台状墓』で、多くの研究者が、夫々の地域の立場から眺めた『台状墓』について語っておられます。遠い所では、鳥取県、大阪府、福井県の方も参加です。

 台状墓というのは、あちこちの遺跡で見つかっていますが、畿内における方形周溝墓の最も古いものは、兵庫県尼崎市の東武庫遺跡の例を挙げ、次の段階には、大阪府茨木市の東奈良遺跡を例に挙げておられます。
 と云う次第で、藤井 整氏の方形周溝墓のとらえ方は、畿内に限られるかも知れませんが、
次の特徴を具備している古墳としておられます。

 ①埋葬施設----木棺墓、土壙墓、土器棺墓
 ②1つの墳丘に埋葬施設は単数の場合と複数の場合が回操作ある。
 ③副葬品を持たない。
 ④成立段階から階層差を表示する性格がある。
  ④の意味が少し、判りにくいのですが、2,3歳の幼児には段階があると書いておられます。
ウッイキペディア は、次の所に書いておられます
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%A2%93%E5%88%B6#.E6.96.B9.E5.BD.A2.E5.91.A8.E6.BA.9D.E5.A2.93.EF.BC.88.E6.96.B9.E5.BD.A2.E4.BD.8E.E5.A2.B3.E4.B8.98.E5.A2.93.EF.BC.89 

『台状墓』は、丹後地方に特異的な墳墓だと、丹後の歴史家の皆さんは、チラ得ておられるように、理解していましたが、方形周溝墓とは、上の様に、捉えますと、台状墓と方形周溝墓は、あまり変わらないように書いておられます。
 お隣の但馬の方が、やはり、但馬にも方形周溝墓があることを報告しておられます。

 一方、丹後の皆さんは、『台状墓』は、他の地方にある台状墓と違うように、見ておられますが、一番の特徴は、山の上にあるのが特徴です。
 これは、丹後の地形の加減ではないでしょうか。丹後は、平地が少なくて、山地が、80%を占めるらしいです。

 ただ、四隅突出型墳丘墓 http://www21.atpages.jp/skeikas/page237.html と云われる墳墓が有りますが、これは、日本海側にあるのですが、確かに、丹後を飛ばして福井県に拡がっている所を見ると、丹後にある台状墓は、四隅突出型墳丘墓に替る人たちのお墓の様にも思えます。

四隅突出型墳丘墓の出土地は、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page347.html
に収録しています。

 一方、九州に目を移しますと、例数は少ないですが、大分県などは、三角縁神獣鏡が出土するなどが有って、4、5世紀の墳墓だと記されています。

方形周溝墓一つを取上げても、このお墓が、日本列島をどのようなときの流れで、広まって行ったのが、解らなくなってきます。
 
 私は、方形周溝墓は、九州から始まって、大阪の東大阪市や八尾市で沢山作られる様になってた思っていましたが、一概にには、そうとは言えないなと考えを改めています。

 このように考えてきますと、方墳と方形周溝墓とは、ただ、周りに溝が有るか無いかの違いであれば、二つの間に、それほど、時代や人による違いはないのではとも、ぐらついています。
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上牧町の画文帯環状乳神獣鏡(13)  倭文神社
倭文神社は、シドリジンジャと読みます。
 
倭文は、倭文とも読みますから、シトリジンジャかも知れません。
倭文神社の事は、以前に http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-08 に書いています。
倭文神社は、全国に14社存在します。この神社は織物に関係がある神社です。
ウィキペディアには、
• 伊勢国鈴鹿郡 倭文神社(現 加佐登神社(三重県鈴鹿市)に合祀)
• 駿河国富士郡 倭文神社(静岡県富士宮市)
• 伊豆国田方郡 倭文神社(現 鍬戸神社(静岡県三島市)ほか論社複数)
• 常陸国久慈郡 静神社(茨城県那珂市)
• 甲斐国巨摩郡 倭文神社(山梨県韮崎市)
• 上野郡那波郡倭文郷 倭文神社(群馬県伊勢崎市)
• 丹後国加佐郡 倭文神社(京都府舞鶴市)
• 丹後国与謝郡 倭文神社(京都府与謝郡野田川町)
• 但馬郡朝来郡 倭文神社(兵庫県朝来市)
• 因幡国高草郡 倭文神社(鳥取県鳥取市)
• 伯耆国河村郡 倭文神社(鳥取県東伯郡湯す梨浜町宮内)
• 伯耆国久米郡 倭文神社(鳥取県倉吉市)
他に以下の倭文神社も著名である。
• 倭文神社(岩手県遠野市)
• 倭文神社(奈良県奈良市)
が掲載されていますが、上牧町に近い神社は、掲載されていません。
ところが、葛木倭文坐天羽雷命神社 という名の神社も倭文神社と呼ばれています。
神奈備 http://kamnavi.jp/as/katuragi/kzkamori.htm、の方も書いておられますが、
 神社の名前は、葛木倭文に居られます天羽雷命を祀る神社です。しかし、この周囲には、倭文という地名はありません。以前は、あったのですが、誰かが、無くしたのかも知れません。
 神社では、上に書きました神社の根本社であると云われていることを神奈備さんが、書いておられます。
 倭文神社は、何カ所か訪れましたが、立派な神社が多いです。叱られるかも知れませんが、葛木倭文坐天羽雷命神社が、一番貧弱です。 それだけに、倭文という地名すらありませんが、神社の名前は、残っているのが気になります。
 現地説明会の時は、よう行きませんでしたが、最初に、葛木倭文坐天羽雷命神社の事が気になりましたので、後日、上牧町まで行きました。 上牧町から、二上山が見えるかも知りたかったですし、古墳の上から見ると二上山がみえるかを確かめに行きました。
 しかし、見えませんでした。
 葛木倭文坐天羽雷命神社が、全国の倭文神社の総元締めであれば、上牧町から、全国の倭文神社に、指図をするトップの役職であったと説明するつもりでしたが、上牧町から葛木倭文坐天羽雷命神社までは、少し距離が遠いように思いました。

 13回に亘って上牧町にて、住んでいた久渡古墳に葬られた人は、中国から派遣された人ではあるが、どのような仕事をしていたのかは判りませんでした。

 新しい発見がありましたら、書いて見ようと思います。
 長いこと 有難うございました。




古いですが、ご覧ください。
重機で発掘、銅鏡真っ二つ 奈良・上牧町の古墳で
http://www.asahi.com/national/gallery_e/view_photo.html?national-pg/0801/OSK201208010174.jpg

銅鏡真っ二つ----割れ目が古い様におもうのですが・・・。

県西部で画文帯神獣鏡 - ヤマト王権が配布か/上牧・久渡古墳群
http://www.nara-np.co.jp/20120802090904.html 
ヤマト王権が配布か----中国の皇帝から貰ったとおもうのですが・・・。

古墳:上牧の丘陵から7基 新事実次々、宅地開発を中止 町「全体の国指定史跡化目指す」 /奈良
http://mainichi.jp/feature/news/20120829ddlk29040628000c.html 古墳:上牧の丘陵から7基------こんなに大そうな発掘をはじめから、町が主導してやっていたのでしょうか。
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上牧町の画文帯環状乳神獣鏡(12)  太田南2号墳
最近、がらりと方向転換して、京都府の丹後を調べています。体調が悪いので、遠方へはよう行きませんでしたが、頑張って丹後へ行ってきました。
出かけるのは良いことです。頭が刺激を受けて、次々、調べていますと、京丹後市弥栄町字和田野小字下太田にある太田南2号墳が気になりました。以前にも何度かみたことは有りましたが、今回は、此処で、画文帯環状乳神獣鏡が出土していることを確認し、倉庫に追加しました。
全部で、55枚見つかったことになります。
外に、 内行花文鏡や方格規矩四神鏡も、丹後で見つけました。少しずつ、資料に追加しています。
 画文帯環状乳神獣鏡は、55枚見つかったのですが、これは中国製の鏡です。どこの古墳ら出土したか、ご覧ください。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page277.html

黒塚古墳、桜井茶臼山古墳、大和天神山古墳、新山古墳、椿井大塚山古墳、和泉黄金塚古墳 古墳も大きいし、出土品の多さも抜群です。同じ、画文帯環状乳神獣鏡が出土しましたので、被葬者は同じ仲間であり、似たような時代に活躍し、主導的な立場に居たことが推察出来ます。
 ところが、画文帯環状乳神獣鏡が出土した上牧町の久渡古墳は、規模は、あまりにも小さいし、出土したものも、少なすぎます。
 
 画文帯環状乳神獣鏡を持っていた人たちは、全員、関東から、九州を経て、中国に絹を運んでいたグループではないかと考えています。中には、この長い道中のうち、例えば、名古屋から奈良までを取り仕切っていたとか、

 久渡古墳の主は、どのような役割をしていたのでしょう。太田南2号墳の主は、まだ、確認していませんが、絹の生産にも携わっていたのではとも考えています。中には、絹製品には少しも手を付けることは無く、運搬だけをしていたなど、考えています。この辺りは、想像の域をでることは有りません。
 
次回は、 久渡古墳の主は、二上山の近くに住んでいましたので、少し、別の角度から眺めてみようかと思っています。
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まとめ
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