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世の中で起こる おかし~なと思ったことを書いてみます。
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福田神社 村社 眞庭郡
鎮座地 岡山県真庭郡八束村大字中福田字大宮392番地
 地図 http://www.its-mo.com/z-127004262-481170956-11.htm

現在地 岡山県真庭市蒜山中福田414-1
祭神 大己貴命、素盞鳴尊、稲田姫命、大御食津比女命、天照大御神、若日女命、萱野姫命、迦具土命、少彦名命、大山咋命、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、神倭磐余彦神、志那津彦神、志那津姫命

祭日 大祭 例祭   11月3日
      記念祭  4月3日
   中祭      5月3日
       八月満月ノ日
社殿
 本殿  梁行 三間八寸    粉葺  建設年月不詳
     桁行 三間六寸
 拝殿  梁行 三間二尺五寸  粉葺  建設年月不詳
     桁行 七間二尺    
 幣殿  梁行 二間四尺四寸  粉葺  建設年月不詳
     桁行 三間二尺九寸
 神楽殿 梁行 一間一尺    粉葺  大正4年8月建設
     桁行 五間二尺五寸
 神輿蔵 梁行 一間一尺    瓦葺  大正4年8月建設
     桁行 五間二尺五寸
 随神門 梁行 二間一尺二寸  茅葺  建設年月不詳
     桁行 四間一尺七寸
 神饌所 梁行 一間一尺    粉葺  大正4年8月建設
     桁行 二間五尺九寸
 宝庫  梁行 一間一尺    瓦葺  大正4年8月建設
     桁行 二間
 社務所 梁行 二間      粉葺  大正4年8月建設
     桁行 三間
 参籠所 梁行 一間五尺五寸  粉葺  大正4年8月建設
     桁行 二間五尺七寸

境内坪数 1796坪
氏子戸数  370戸

 財産
 田   弐段四畝弐拾壱歩
 山林  五町壱段四畝四歩
 現金  四千六百四拾弐円 

境内神社
 御先神社
 祭神 福田神、大国魂命、大物主命、豊玉毘古命、豊玉毘売命、玉依毘売命   
    美作掾恩智神主広人
 本殿 梁行 四尺三寸  粉葺  建設年月不詳
    桁行 五尺二寸

 海原神社
 祭神 豊玉彦命、豊玉姫命、玉依姫命、瀬織津比命、須佐之男命、大山祇命、久々能智命、草野比売命、阿遇突智命、植山姫命、彌都波能売命、宇気母智神、少彦名神、品陀和気命、猿田彦神、八衞比古神、八衞比女神、久那計神

本殿  梁行 四尺四寸  粉葺  建設年月不詳
    桁行 三尺六寸

 菅原神社
 祭神 菅原神
 本殿  梁行 四尺四寸  粉葺  建設年月不詳
     桁行 三尺六寸

由緒沿革 本社古代の社号は不明なり仁治三年(1242 ) の古書に布施郷の大宮とあり文永の古書に郷の宮とあり宝徳三年の古書に大森大明神とあり応仁三年(1469)の古書に大宮大明神とあり作陽誌に大森神社とあり其以降は明治維新まで大守大明神と云へり明治四年正月福田神社と改称す
 本社の東五丁に字庄頭人戸五戸あり 庄庁古跡にして庄内の神事悉く当社に於て正税を以て行われたる事仁治三年の古書に明なり下康安年中白伯州倉吉の城主山名左衛門尉師義兜を奉納す天文十八備呰部城主植木秀長銅製の鉾を奉納す 仝天文廿三雲集富田城の守将尼子誠久本殿建築す 慶安年中作州大守森内記継本殿建築す 寛文二年作州大守森伯耆守武本殿修繕す 元禄年中津山藩臣佐治利雄額字を書す 津山藩年々慶事の際百疋づつ
御初穂献納 明治廿四年九月久邇宮朝彦親王殿下額字(社号)御下附

所蔵文書写
 大曾
納久見村米代方之事
 ○井三分一    (○字虫蝕)
一米一石五升は但○○共
   此内一石はふく田こうの宮御まつり
一代七百○○内三百匁ハ正月二日
   こうの宮おこないの御まつり
右皆済如件
 仁治三〇拾二月十六日  八〇〇平花押
   長田村吉正名公用辻ノ事
合米方三石四斗      日下三郎衛門
 代方壱貫百匁
此内米六斗代二百匁はふくたこうの宮御供米四斗こうの宮殿へしゆりめんに立申候
皆済如件  但升は八合也
 文永三年十二月十三日              福田久 花押

真庭郡川上村
社  掌  芦立 重?広
氏子総代 芦立 政蔵
  法花 村吉   隅田 芳夫
  池田 又作   長網荘太郎
          二若 萬蔵
 八束村長     立田 棟造



管理者の意見
 
参考に-----鎮座地 岡山県真庭郡八束村大字中福田字大宮 の小字名に〔大宮〕があります。
〔大宮〕とありましたら、皇族と何らかの関係があると考えて、もっと、資料を集める必要があります。
現在の住所は、岡山県真庭市蒜山中福田414-1
です。
〔大宮〕は、末梢したくて無くなったのか、ただ
皇族と関係があることなど知らなくて無くなったのか調べる必要があります。

神倭磐余彦神の名前があります。格式を高めるために、祭神に加えようということは許されなかったと思います。
 例えば、冬の間だけでも、避難していたとか、避暑のために滞在したとか、可能性を探る必要があります。

神倭磐余彦神は古事記にある表記法です。
底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命も古事記に書かれています。

志那津彦神は、古事記では志那都比古神とかかれ、日本書紀では級長戸辺命(別名 級長津彦命) と書いてあります。
 古事記には、志那都比売神は書いてありませんが、志那津姫命はあります。古事記には、
志那都比売神と書かれていたのに、古事記にも手が加えられたおそれがあります。

大己貴命は、日本書紀に書かれている名前です。古事記では、大国主神です。この場合は、全く異なる表記法は、重要な点です。 どの書物でも、大己貴命と大国主神は同じ神と書いてありますが、同じ訳がありません。
 古事記を書いた人と古事記を書いた人との間に、主張していることに違いがあったことになります。
 古事記が正しくて、日本書紀がまちがっているとのも問題ではありません。

この様に、祭神が多い事自体が、この神社には、複雑な歴史があったことになります。
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