世の中で起こる おかし~なと思ったことを書いてみます。
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上牧町の画文帯環状乳神獣鏡(10) 新山古墳(6)
新山古墳を訪れた時は、カーナビのおかげで、割と早く到着できたのですが、カーナビの地図が良くなかったです。目には大きな森が見えているので、この森が新山古墳だとおもっているのですが、確信持てません。
 うろうろ走りましたので、歴史と関係ない情報が頭に入りました。古墳の横の池のような濠のようなところが切れる所に、集落に入る道がありましたので、侵入。狭い道は、益々、せまくなり、車が一台入れるような道になります。このような道を入りますと、多くの場合、行けなくなりバッグで戻ることになるのですが、進みますと、暫くは、古くからある家がつづき、やや、開けた所に出ました。比較的新しい家が、数軒ありましたが、直ぐに前に古墳が有るのに、この集落は、行き止まりの集落でした。この集落の直ぐ傍に、沢山の住宅が建っているのに、道は有りませんでした。
 このように眺めてきますと、新山古墳は、以前は、まわりは、家は無かったようです。
 先ほど、通りました細い道の南側は、畑が有りましたから、新山古墳を造った人達の生活の主体は、北側にあると考えて、北側を調べてみることにしました。
 小さな社ですが、於神社 式内社と書いてありました。
http://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/030405-01.html
 上のところから、データを拝借しますと、

【延喜式神名帳】於神社 大和国 広瀬郡鎮座

   【現社名】於神社
   【住所】奈良県北葛城郡広陵町大塚667
       北緯34度32分4秒,東経135度44分4秒
   【祭神】天児屋根命 (配祀)天照皇大神 品陀和気命
       「祭神詳ならず」『神社要録』
       「祭神埴安姫命」『特選神名牒』
       「於神社(大和国広瀬郡)木俣命」『大神分身類社抄』
   【例祭】
   【社格】旧村社位
   【由緒】明治6年(1873)村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】同名の社が讃岐国苅田郡に一社あり
        讃岐人の移住に伴つて同郡内の於神社も同時に勧請

   【祭祀対象】 
   【祭祀】江戸時代は廃社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・御手洗舎
   【境内社】

外にも、掲載しておられる方は、有りますが、殆ど、同じもので、このブログが、一番詳しいです。
①同名の社が讃岐国苅田郡に一社あり
 この記述は、どなたも書いておられますが、検証されていません。
 社名の「於」は、読むことも困難ですから、やはり、関係が有るのでしょう。

②亨保ごろ「すでに廃」とあり。
  亨保とくれば、享保の大飢饉しか知りません。江戸時代中期に起こった飢饉である。江戸四大飢饉の一です。
 全く、江戸時代の歴史は、知らないのですが、私が紀元前から、日本の絹が中国を介して、ヨーロッパまで、輸出されていたという仮説は、この時期にでも、当てはまるのではないかと考えます。
 江戸時代になってからは、鎖国が行われましたから、生産された絹は、外国へは、輸出されなくなりますから、国内だけの消費になります。
 画文帯環状乳神獣鏡の時代は、三角縁神獣鏡より前の時代ですから、紀元200年頃の事です。
その後、於神社は、新たに、式内社に制定されたと思います、早ければ、500年頃、遅ければ、900年の頃です。

③【祭神】天児屋根命 (配祀)天照皇大神 品陀和気命
祭神を見ますと、天照皇大神が、当初祀られていたのではないでしょうか。 その後、近くに、新山古墳が造られる頃には、中国人の支配力が強くなる地域になったのでは。
 式内社に制定された時には、藤原氏が支配をしていたのではないでしょうか。

 江戸時代の歴史は、知りませんが、藤原氏は、関東にいた人たちです。ほんとうか どうか判りませんが、藤原氏の先祖を祀った神社は、奈良の春日大社、大阪の枚岡神社。その前は、どこか判っていませんが、藤原氏は、但馬にやって来たと推理しています。
 従いまして、但馬は、兵庫県では、寒い地域ですが、豊かな地域だったと思います。
 どうして、豊かだったのか判りませんが、地図を拡げますと、「市場」という地名が、あちこちに見つかります。この「市場」は、なにの市場だったのか、土地の方に、質問しましたが、どなたも知らないと云われました。
 私は、絹の市場だと思っています。天皇家の勢力が強かった処と思われますが、殆ど、藤原氏の匂いのする歴史に書き替っています。

ここでは、悲しい農民一揆の資料が公開されています。
【和田山の歴史 Ⅰ】に掲載されています。全国的に公開しますと、叱られるかもれませんので、その一部だけを掲載します。

一揆

別のページに、享保9年(1724)の年貢は、8割9分と記されています。これでは、次の年の籾種を残しますと、農民は、自分の作ったお米も食べることが出来なかったと思います。


話がとんでしまいましたが、明治政府になってから、イギリスを介して、絹は世界に流れるようになったのではないかと推理しています。
どうしたわけか、どこへ行っても、絹の歴史は、ゼロに近いと思います。

鎖国が300年続けられたという事は、中国に、絹が入ってきませんでしたから、それまで、潤っていた所は、全部元気がなくなった。そこへ、大国が押し寄せ、中国を潰してしまつた。
一番最後に、又、元気になった日本は、たっぷり稼いだお金を使って、日露戦争へと突入。

こうなりますと、想像ばかりの日本歴史となりますが、於神社は、廃社になったことは、事実と見ていいと思います。
 現在は、復活していますが、ひっそりした神社です。復活したときは、絹の恩恵は無かったと思います。

新山古墳は、誰もいなかったところへ、造ることは有りません。これだけ大きなものを造った人は、豊かであっただけではなく、豊である所を見せなければ、ならなかったと考えています。

参考資料
讃岐神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%83%E5%B2%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE
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まとめ
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