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宮陣神社   村社 三井郡宮の陣
 旧鎮座地 三井郡宮の陣大字宮瀬字?浦

現所在地 福岡県福岡県久留米市宮ノ陣五丁目12番1号
地図 
http://www.kurume-hotomeki.jp/event/?mode=detail&isSpot=1&id=402036000019#map

筑後に於ける両征西大将軍宮
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1099426/6


祭神 征西将軍良成親王、征西将軍懐良親王

由緒 当社の所在地宮陣は今を距ること約五百八十年前、正平十四年八月、後醍醐天皇の皇子一品式部卿征西将軍懐良親王菊池、名和新田其他勤王諸将の兵四万を率いる賊将少貮の兵六万と筑後大保原に於いて雌雄を決し給ひし時、作戦計画をたてられたる御陣営の跡なりと称す。征西将軍良成親王は正平仲前将軍懐良親王御不豫に依り、御代官として御西下在らせられ、筑後国上妻郡北矢部村大仙御所へ御座在らせられ当時鎮西宮又は筑後宮と称し奉れり、(大杣は即ち今の御側山なりと土俗相伝ふ)明治九年御陵墓北矢部村御側山中に確定され、即五條氏を以て墓丁に任せらる、(五條氏の祖先は則ち前将軍宮へ随行せられたる公?なり)
 是より先き明治六年久留米の有志相謀り、前征西将軍宮御遺愛の梅樹の付近に同将軍宮を奉仕する社殿新築の官許を得て神殿造営に着手せんとせしが、同七年佐賀騒乱起り、其後水害風災等打続き、有志亦諸方に離散せしため荏苒歳月を送りたり。
 儒者船曳鉄門、後征西将軍宮の御遺蹟に就き熱心調査し其筋に建白する所あり、斯くて御墓所の鑑定を見たり。因て鉄門は同十二年矢部に御神廟を建築して、前後征西将軍宮を御合祀あらせられ、鎌倉井伊谷両宮の例に准ぜられたき旨請願せり、然るに前征西将軍懐良親王の御尊霊は、明治十三年八月肥後国八代町官幣社として奉祀せられ給ひしにより、後征西将軍良成親王の御尊霊も前征西将軍宮様奉祀したき旨を以て、同十七年に至り、舊来藩志士と相謀りて、御井郡合川村字宮盾の地を相し、祀殿を建築せんことを願出でたり。是れ御墓所矢部山中は土地僻遠道路険悪にして衆庶の参拝に不便なれば、懐良、良成親王の征西府としての御本営たりしが、同山には古来玉垂宮の奉祀しせられたるを以て、山下なる宮盾に結するに至れり。蓋し此地は正平十四年大保原合戦の際、懐良親王賊徒と川を挟んで陣し給ひし古国府の西端にして、又文中年間懐良、良成親王の御陣営なりしを以てなり。
 斯くて明治十八年一月二十七日官許を得て横一間入一間の小社を創建せり、然るに其後暴風にて社殿倒壊せしを以て、更に有志協議の上御叔甥の御縁故ある懐良親王御遺愛の梅樹の側に移転建築せんことに決し其筋に出願し、同二十一年三月十三日官許を得、村民及び郡内有志の寄付金及蛇り得たる資金を以て、敷地に段歩余を買収し、同年十一月横二間入一間半の神殿を建築するに至れり、是宮陣神社の始なり。然るに翌二十二年未曾有の大洪水に遭遇し、同二十三年関係銀行破産の非運に際会せしを以て、辛うじて建築せし神殿の敷地を除くの外、境内は従前の如く田畑に復し、社殿は草芥裡に孤立するに至れり。有志者共顚廃を嘆き、明治二十五六年の頃より再興を謀りしが、日清戦役起り已むなく中止することヽなれり。
 明治三十年小松宮彰仁親王御参拝、同三十三年畏くも皇太子殿御参拝あらせらる。斯く異數の光栄に浴し四民感措く能はず、郡論一致を以て社殿改築拝殿増築の議を即決す。依て横二間半の拝殿並に付属建物二棟を新築し、境内を都合三段歩となし、石華表建設、樹木の植附等関係者の熱心なる奔走となれり。明治三十五年及び四十二年、爾来よりの縁故により、当社に前将軍宮懐良親王の御尊霊合祀のことを請願せし許可せられざりしが、明治四十四年高良神社宮司阿蘇惟教及び筑後史談の協賛を得て、更に前将軍宮懐良親王の御尊霊合祀のことを出願せしに、同年九月十九日許可せられ、多年の願望始めて達し、関係者一同大に感激せり。依て一層境内を清浄森厳ならしめんとて群費を支出し、県道より直通の参道を開鑿し同年十月二十四日の祭日に当り合祀祭を営む、之より御主神に良成親王相殿神に懐良親王を奉祀することゝなれり。
 爾来皇太子殿下御手植えの松は年々翠色を増し、凛乎として風霜に堪へ、鬱乎として繁茂せり。三井郡教育委員会は之に石の玉垣を繞らし、「皇太子殿下御手栽松」の碑を建つ。
又京都、大阪両市有志の寄付にかゝる石華表は参道に建てられ、伯爵東久世禧の揮毫せられし神社号は高く其上額に掲げられ、「将軍陣営跡」の石標は其側に建てられ、境内の設備此に於て略整ひ神霊の稜威益々光を発し衆庶の崇敬日に加はりて、社運発展の兆月に顕はるゝに至れり。
 明治三十年三月二十三日明細帳編入許可あり
大正四年六月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大正六年五月朝香宮鳩彦王殿下御参拝、同八年十一月閑院宮載仁親王殿下御附渡辺武官を以て御代参せしめられ、同九年十二月久邇宮邦彦王殿下侍従武官を従へさせられ、神饌料を献じ御参拝の後、梅樹を御手植え遊ばされ、昭和六年八月閑院宮春仁王妃殿下御参拝あられたり。
 当社の由緒を物語、又当社に一層の光輝を添ゆるものは実に将軍梅なりとする。懐良親王此の地に在らせられ、実に将軍梅なりとす。懐良親王此の地に在らせられ、地勢御視察の際親王は一株の小紅梅を植ゑ給へり後世其梅を将軍梅と唱へて四民の尊崇篤きに至れり。
 元和年間有馬豊氏、久留米藩主として入国後、楠某宮陣の庄屋となり、梅樹に大柵を繞らし、代々之れを保護し来り、維新前勤王愛国の志士交々来りてこの梅華を賞し感奮興起する者多し、慶応四年藩主有馬頼咸藩吏をして本柵を石の玉垣に改めしめ、以て益々遺蹟保存に心を用ひ忠愛の念を涵養するの場所とせらる。明治三十年一月肥筑の野に於て陸軍特別大演習挙行の際、陸軍大将小松宮彰仁親王殿下其総督として御西下御軍旗の御余暇本社に御参拝、将軍梅を御台覧あらせられ有志の請を容れ給ひ「将軍梅記念之碑」の七字御揮毫御下賜の栄を担へり,因て郡民より寄付金を募りて梅樹の側に記念碑を建つ、時々明治三十三年三月なりき。
 明治三十三年十月畏くも 皇太子殿下筑紫御巡啓の際同月二十四日当社に御参拝、親しく将軍梅を御台覧あらせられ、社頭に権松御自栽あらせらる。
 昭和九年三月十三日、本社創建五十年を記念をトし建武中興六百年記念祭、並びに、良成親王五百五十年祭を奉仕し、顕官外郡内有志多数参拝ありたり。

例祭日 10月07日、8日。
神饌幣帛料供進指定  大正四年十一月十日
主なる建造物  本殿、幣殿、拝殿、社務所、将軍樹記念碑

主なる寶物  皇太子殿下(大正天皇)御使用の鍬、久邇宮殿下御使用鍬、久邇宮殿下御使用鍬、
朝香宮殿下御使用鍬、御神鏡一面

境内坪数 766坪
氏子区域及戸数 氏子大字宮瀬、  200戸 信徒宮陣村七百三百戸但し二百戸の氏戸数を含む。
境内神社
坂本神社(大山咋命、豊玉比咩命、菅原神安徳天皇、素盞鳴命、火産霊命、雷命) 祭神大山咋命は宇中町の村社坂本神社並びに無格社日吉神社戸し、祭神豊玉比咩は字屋敷に無格社寶満神社とし、祭神菅原神は宇中町に村社天満神社戸し、祭神安徳天皇は宇中町に無格社高王神社とし、祭神素盞鳴命、火産霊命は何れも右坂本神社の境内素盞鳴神社、秋葉神社として各々祭司りしを明治四十四年七月九日許可を得て坂本神社に合祀し境内に移転す、同一祭神は合霊す。

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まとめ
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