世の中で起こる おかし~なと思ったことを書いてみます。
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八幡神社   県社 浮羽郡千年村
旧鎮座地  浮羽郡千年村大字若宮字高林

祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神、埴安姫命
由緒 景行帝行宮の趾にして(日本記に云うふ、的邑の行宮なり)土俗久しく帝を崇祀す、後久安六年源為朝此地に来り該社の由来を問ふ、土俗答ふに帝の熊襲を討ちて此地に来り兵仗を納め給ふの旧事を以てす為朝の曰く宣い哉我今九州を平定遷都欲す之れ祥地なり即ち祈て曰く若し我をして意の如くならしめば祖先義家の東国を平定し鎌倉に八幡神祠を建てしに習ひ我亦此地に神祠を仰く可しと果して意の如し、依て仁平二年九月に至り終に八幡の神祠を建て祭田を寄附す、爾後間註所氏等崇敬して盛衰一ならずと雖も藩政有馬氏に至るまで国守護の鎮社とし本郡の宗祠とす故に四時の祭事営繕等頗る荘厳なり、明治五年本郡を割て三部とし漸くその一部を該社に附す。明治六年三月十四日郷社にさだめらる。昭和十年十月八日県社加列。
 埴安姫命は字鏡畑へ埴安神社として祭祀ありしを合併願出に依り明治四十年十月二十八日許可。
 又社説に述ぶる所精細即ち次の如し、源為朝鶴岡八幡宮を勧請し仮りに溝尻の庄安元名に奉安す。時に三善清行の後胤、町野右馬頭三善朝臣康倫八幡宮造営の任に当り、神殿、拝殿、楼門、廻廊、玉垣、鳥居、伊勢雨宮、春日社、本社其他の摂社十四社落成す。
 蓋し景行天皇は土俗久しく崇祀せし此地主の神明なるを以て此の時本殿に合祀せしものならん。(而るに数次の回禄に罹り景行天皇の伝を失ひ恐らくは誤って仲哀天皇を合祀せしものにゃ本宮鶴岡の祭神は応神天皇、神功皇后、三女神なればなり)
茲に於て仁平三癸酉年九月二十九日遷し鎮め奉る。現今に至るまで其の日を祭礼式日と定む。為朝は其の佩刀を献納し、神領五十町歩を寄付し、後久寿二年上洛せり。康倫の三男安元左近大夫真行姓を真神朝臣と改め、、本社の神主となる。即ち当若宮神主安元氏の始祖なり。 (町野を安元と改めたるは仮に神霊を奉安せし溝尻の庄安元名と有るに依れり)その後寿永の乱に依りて元暦元年社殿兵火に灰燼す。文治三丁末年康倫再び之を造営せり。同年康倫神田十町歩を又真行三町一反歩を寄附す。?に神領神田を併せて預り職を置き、代々之を支配せしめ、年中二十四度の祭禮甚だ厳重なりき。
 嘉禄二丙戌星野八郎京都より下向し星野居す、本社を崇敬すること浅からず、其の子孫正実親忠?泰相次ぎて尊崇す。神領十三町歩寄附し、別に神主を立て之れを支配せしむ、安元の姓を名乗り安元讃岐と云ふ、代々星野神主と称し後向神主と改む。
 その後社殿又火に復凶す。歴仁元戌戌年三善朝区清久再興せり。町野中宮大輔三善朝臣康信源頼朝に仕へ問註所執事職たり、六世の孫康行正和二丑年筑後国生葉郡を領し鎌倉より下向して長岩に居城し、本社に参詣す。其祖先再興の神社なれば崇拝常に浅からず、神領十町歩を寄附せり。
斯くて寛政四癸未社殿又消亡す永正十癸酉年年三善加賀秦親之れを造営せり。
 天正十壬午年国家の兵乱に依りて又兵燹に罹り灰燼に
となり、僅かに礎石のみ残れり。此に於て日向入道々邨並に両神主等同協力して、同十八庚寅年拝殿を建つ慶長元年申年若宮主二十八代安元伊予守真勝の二男安元惣右衛門真家分家して掃部と改め、大宮司祠官となれり、是れ大宮司祠の始祖なり。其の後為朝奉献の大刀兵火を避けんがため社家等町野刑部大輔統景に預く、(統景は長岩城主康行二十世の孫なり)  統景豊臣秀吉の幕下に属し、高麗の陣に戦死す。統景の嫡子政連肥後国に移住せり、後社家を肥後国に遷し宝剣を返納せしむ。慶長年中田中筑後守一時社領を没収す。
 寛永二甲丑年神殿を造営し、同十一年甲戌年石鳥居を建立す。正保元申年楼門を建て、慶安二巳丑年又拝殿を改築せり。承応元元壬申年有馬忠頼社参奉幣す。
 万治三庚子年始めて鐘楼を建つ。寛文元幸丑年楼門を改築し、同禄丙午年有馬半右衛門尉秀正社参し本社の由来を聞き、神幸の調度星野邨土穴に在りしを更に召し出して本社に寄付し、同七丁末年寶剣の鞘及び箱を献納せり。同九巳酉年神輿を改修し、永代神幸及び其の次第を定む。
 延宝八庚辛年当国の神社に霜月十五日一国一行に執行すべき旨を達せり、然るに当社の由来を訴へしを以て先例に依るべきを許容せらる。爾来式日の祭礼恒例に依りて厳重なり。
 貞亨元甲子年有馬頼元社参し、青銅数貫文を献納し、且天下太平国家安恩五穀豊穣産子氏子子孫繁栄の祈祷日々新なり。同二乙丑年新に両殿を造営し、元禄四辛未神楽殿を建、同十五壬午年玉垣を改造せり、次て廻廊を改築す、其の後手水舎神庫社務所等を建立せり、宝暦十庚辰年石鳥居額面を改造す華山院常雄の筆なり。寛政九年鐘楼を改築す、文久年間神殿拝殿を修理す。明治十八年拝殿を修復し、同三十五社務所を建つ、同四十一年更に拝殿を修理す、大正十三年神苑を書く蝶し、昭和九年拝殿を修復し、亘殿を拡し、神殿に大修理を補し、神饌所を新築社務所を改築、神楽殿に修理を加へ手水舎を改築せり。尚此間幾多の変遷興廃ありしならんも悉く詳にせず、今は唯奮起に依りて其の概要の一般を摘録せるに止めたり要するに累代の武将を始め問註所氏、星野氏崇敬して其の間盛衰一ならずとも雖も、藩政有馬氏に至るまで国守郡主護国の鎮社本郡の宗祀として尊崇怠らざりき。
就中有馬氏のごときは、一代一口太刀献納の制をさへ定めたりと云へり、従って四時の祭事営繕等頗る荘厳な年中祭祀の主なるものは、大祭十月二十九日、三十日即ち安芸祭なり、元舊九月二十九日執行せり、御鎮座の終日とす、里人俗にお供日祭りと称す、寛文年中御神輿を造り神幸を創めし以来今日に至るまで元生葉竹野上座下座夜須五郡の神主式事に列し盛典を極めたりと云ふ。今此の日を以て幣帛共進使参考向す、常日遠近参拝衆庶多く頗る盛況なり。中祭り四月産日即ち春祭なり、元舊二月初卯の日に執行せり、故に初卯祭りといふ。近年迄は三月十五日なりしを今又上記の日に改めたり、鳩替粥占鬼火の神事あり、地方特殊の神事として遠近より参拝者頗る多し。同七月二十九日夏越祭あり、元舊六月二十九日執行せり、茅を以て輪を作り社前に設備す、参詣の輩此の輪をくぐる故に又輪悦の神事と云ふ。同九月二十五日放生会祭あり、元舊八月十五日に執行せり。又両武時代本宮に属せし寺院に若宮山観音院弥勒寺ありしと雖も今は僅かに其の遺趾を止めたり。
 附記境内史蹟日の岡古墳、此の古墳は少なくとも千百年以前のものにして、前方後円型にて西面せり、後宴の中央には天井石拭か除かれたる石?あり、其の内側には赤線白の顔料にて同心円蕨手楯三角形等の紋様が描かれたり、此の種の装飾を石槨に施されたる代表的古墳として最も重要視せられ、昭和三年二月七日史蹟として内務大臣より指定せらる。
 同史蹟月の岡古墳、この古墳も同年代期のものとして所謂瓢型にて西面し、後円部の中央に偉大なる石棺を置かれたり、石棺の内部は全部
朱を以て塗られ、其の内部及び周囲より発屈せられたる古鏡甲冑刀剣矢の根等を保存せり、これも亦代表的古墳の一として最も重要視せらる。

例祭日  10月29日
神饌幣帛料供進指定  明治40年1月19日
主なる建造物  神殿、拝殿、渡殿、楼門、廻廊、神楽殿、手水舎、社務所、神庫
主なる寶物 刀剣6口、甲冑一個
境内坪数 3959坪  
氏子区域及戸数 千年邨、吉井町、福富邨、江南邨、四ヶ町村、 2500戸
境内神社  日岡神社、豊受姫神社、琴平神社、猿田彦神、大三輪神社、高良神社、
保食神社、天満神社、磯崎神社、春日神社、稲荷神社、大山咋神社、若宮神社、祖霊神社
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