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大津京の研究をした人一覧
 次の人達は、大津京の研究をした人のお名前です。この人達のお名前は、林 博通著 『さざなみの都 大津京』に記されていた方々です。

①木村一郎
1901(明治34)年  郷土史研究 小学校教諭。大津宮は 滋賀里に存在する説。「太鼓塚」「蟻之内」という字名に着目し、太鼓塚のタイコは「大極」の訛ったもの、蟻之内は「荒れの内裏」の訛ったものと解し、西方山中にある寺跡を崇福寺とみなして、大津京の宮殿をこの地に求めた。

②喜田貞吉
 ①の木村氏の半ば埋もれていた説に基づき、更に学門的な説として確立し学会に紹介した。明治43年と明治元年神社改正の際45年に出された学術雑誌『歴史地理』第15巻第1号と第2号に掲載された「大津京遷都考」がそれで、大津京城の制は大化の難波京の制を問うュ于したもので、それは平城京、平安京のごときものであったという前提にたち、その最も有力地である大津北郊の地に残る条理遺構をそれが都城制のなごりであるとしている。 ・・・・・。 この文章以下は、林 博通著 さざなみの都 「大津京」の 74~75頁に亘って、木村氏と喜田氏の名前が紹介されています。
参考資料
 大津京跡の方格区割
http://hist-geo.jp/pdf/040/048/229_021.pdf

③牧 信之助
 大正末年から昭和の初めにかけて編纂された『滋賀縣史』において、滋賀里西方山中の寺院跡を崇福寺に、南滋賀のそれを梵釈寺に考定するのが妥当であるとし、さらに後者の遺跡には奈良朝以前の寺院遺構があってこれが文献に見られる大津京内裏の仏殿である可能性を解き宮殿は南滋賀にあったと論じている。(p75~76掲載)

④肥後和男
 肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 - 1981年(昭和56年)2月24日)は、日本の歴史学者。東京教育大学文理科教授、東京教育大学名誉教授。日本古代史の重鎮であった。茨城県大子町出身。従三位勲三等旭日中綬章。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%92%8C%E7%94%B7
(p76~80掲載) 転載しようと思っていますが、あまりにも多いので、林 博通著 『さざなみの都 大津京』を購入して戴いた方が、理解し易いかと思います。

こうした学界における懸案の一つである大津京問題について、その実態を明確にしようとする動きが各方面においてもおこり、昭和三年滋賀県保勝会は大津京の調査を肥後和男に委ねたのである。    ----中略-----

以上が発掘によって明確にされた遺構であるが、その建物がいかなる性格の建物であるかについて、氏は『扶桑略記』の記事によって比定しょうとした。   ----以下省略-----

以上ですが、 私は『扶桑略記』を知りませんので、調べて見ました。
 ウィキペディアでは、次の様に記します。

『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。

私は今、日本書紀を初めとして、他の六国史に書かれていることが信用できるかどうか調べています。全ての本が、藤原氏によって書かれていることを問題視して検討を加えています。
 『扶桑略記』は、その六国史の抄本的役割をするものとすれば、書かれている内容は、すべて、調べてから、採用しなければならないと思います。

⑤田村吉永
ウィキペディアでは、次の様に記します。
田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 1977年8月17日)は、日本史学者。
奈良県吉野郡白銀村(現・五條市)生まれ。奈良師範学校卒。奈良県で中学校教員など。1923年大和史学会、1931年大和国史会を創設。1934年雑誌『大和志』を発刊する。1935年近畿日本鉄道史料編纂室勤務、44年嘱託。1960年「大和の条理制と条坊制の研究」で関西大学文学博士。1964年梅光女学院短期大学講師、同教授。1967年梅光女学院大学文学部教授。74年退任。号は節嶺。[1][2]
(p80に掲載された文章)
 こうした考古学と文献学らの大津京研究に対して、条里遺構に基づく歴史地理学的立場から研究も行われた。
 昭和8年、藤原京の都制を条里から研究されていた田村吉永氏は条里の制は、大化改新直後に実施されたものとして、現在各地にみられるその遺構もこの時点になされたという観点から、又、大津京もこうした条里の上に造営されたという前提にたって、現在大津北郊にみられる東西南北に走る道路や畦畔などの条里遺構を巨視的にながめ、次のように想定した。東京極は二本松を通る南北行する道路、西京極は旧射撃場(現在皇子が丘公園)
-----以下省略----

以下は後日完成させて公開しようと思います。
⑥足立 康
 1898-1941 昭和時代前期の建築史家。
明治31年7月10日生まれ。昭和12年建築史研究会を創立,14年より「建築史」を刊行。法隆寺新非再建論者として喜田貞吉(きた-さだきち)らと論争した。昭和16年12月29日死去。44歳。神奈川県出身。東京帝大卒。著作に「薬師寺伽藍(がらん)の研究」「日本彫刻史の研究」など。以上ウィキペディアより

林 博通氏は、二ページに亘って、崇福寺に関連から、大津宮の位置を述べたと記します。

⑦石田茂作
•   仏教遺物や仏教遺跡を対象とした仏教考古学を提唱。他にも当時まだはっきりしていない状態で学界論争になっていた法隆寺再建説を実証した。
• 大戦中はその考古学者としての立場からアメリカの学者に文化的建造物の多い京都、奈良への爆撃の反対を伝えた。---以上ウィキペディアより
 崇福寺の塔心礎から出土した舎利容器は、その外箱の台脚にみられる香様(格狭間)が様式変遷上奈良末期をさかのぼるものではなく、これを平安初期のものとみなし、この滋賀里山中の寺院跡を梵釈寺に、南滋賀のそれを崇福寺に比定された。(香様の起源とその発展) 昭和16年

⑧梅原末治
• 梅原 末治(うめはら すえじ、1893年8月13日 - 1983年2月19日)は、日本の東洋考古学者。京都大学名誉教授。日本考古学の基礎を築いた。文学博士(京都帝国大学、1939年)。大阪府南河内郡古市村(現羽曳野市)出身。子息は、京都大学名誉教授(人文科学研究所)の梅原郁(東洋史、宋代官僚制・司法制度研究で、2010年日本学士院賞受賞)。--以上ウィキペディアより
梅原末治の批判と題して、林 博通氏は1ページに亘って、批判をかきました。

 これに対し、この発掘調査の顧問であった梅原末治氏は、まずこの舎利容器の出土状態を詳しく検討した後、これは塔創建当初に奉安したままであったことを確認し、舎利容器の香様などの様式変化による年代観は瓦や(土+専)仏などと比べて著しく資料がとぼしく不十分てあるため、後者と年代観が異なった場合は、後者の年代観に従うべきで、逆に後者のそれを否定すべきでないとした。  以下省略

参考資料
崇福寺塔址狸堀事件(2009.10.15)
http://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-9e03.html


⑨福山敏男
• 福岡県山門郡城内村(現柳川市)出身。第五高等学校を経て、1927年京都帝国大学工学部建築学科卒業。内務省造神宮司庁嘱託・東京文化財研究所美術部長などを務めた後、1959年から京都大学工学部教授。1968年に定年退職し、西日本工業大学工学部教授に1978年まで在職した。1981年、京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長。1988年、京都大学名誉教授。
• 正倉院文書の綿密な検討から石山寺の造営経過を考察した(『日本建築史の研究』)。史料に対する厳しい姿勢から「検事総長」と評されたという。----以上ウィキペディアより

林 博通著 『さざなみの都 大津京』において、林 博通氏は、一ページを割いて、次の様に記します。
 一方建築史家福山敏男氏は数多くの文献から崇福寺と梵釈寺はきわめて近接してをり、しかも、崇福寺の四至の内に梵釈寺は位置するものと解し、吉田東五氏、肥後和男などの主張される梵釈寺は天智天皇のために創建されたもので大津京の故地に建てられたものとするのは何ら根拠はなく、梵釈寺と大津京との間の直接の縁起的つながりを否定し、さらに、梵釈寺は長岡京のための東方鎮護の寺としての意味が強く、この時期のこうした寺は山上に建てられる例の多い事をあげ、南滋賀廃寺=梵釈寺説を強く否定した。
以下省略



⑩福尾猛市郎
1908年―1990年)は、日本の歴史学者、広島大学名誉教授。
兵庫県生まれ。1932年京都帝国大学文科国史学科卒、山口大学教授、広島大学教授、72年定年退官、名誉教授、関西大学教授。 
以上ウィキペディアより

 林 博通著 『さざなみの都 大津京』において、林 博通氏は、一ページ以上を割いて、次の様に記します。
 
こうした崇福寺、梵釈寺論争とは少しはなれて地理的立場からの大津京考定もなされた。昭和十六年に成った『大津市史』上巻において福尾猛市郎氏は従来から云われる条里制遺構とは異なる特殊地割を錦織と山上の境界線以北、滋賀里字宮之内付近にいたる間山寄りの地域に、西限は現在の園城寺から近江神宮にわたる道の延長線上に、東限はこの道より東160間のところに求めた。
 以下省略


⑪西田 弘
 JR湖西線敷設の際に、調査に参加。福団長として参加。
西田弘「大津と京都-大津京の在地勢力-」(『民俗文化』県民俗学会1970)


⑫藤岡謙二
 大津京は山城国にまたがる条里地割を基準として、その上に一坊(含道路)450尺の条坊地割を孝徳・天武両朝の難波京の二分の一の規模によって設計された」とし、その宮城の北限を字蟻の内の北辺に、南限を現在ほぼ東流する際川に想定している。

以下省略
 林 博通著 さざなみの都 大津京p113 より一部引用。
 
私の感想としましては、読んで居ましても、難しくて判りません。要は、条里地割の意味が分らない者にとっては、先ず、ここから勉強をし直す必要が有ります。
しかし、藤岡謙二氏は、大津京がどこに在ったかを説明しようとされています。

 しかし、JR湖西線敷設の際に、3.4キロに亘って、調査が行われて、碁盤の目の道路はなかったことは確認されていますから、どのような理論よりも、大津宮は存在したとしても、大津京は存在しなかったことは、果実です。

 これは、どの様に考えればいいかと云いますと、日本の歴史を考える時に、日本書紀に書いてあることが正しいと云うことにして、物事を考えたからだと思います。

①日本書紀が書いた本当の話  城造り
http://blog.goo.ne.jp/skeikas
②小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(137) 壬申の乱(88)の辺りに書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/



⑬秋山日出雄
昭和46年、奈良教育委員会・橿原考古学研究所所属。 著書「飛鳥京と大津京都制の比較研究」 広大な碁盤目状京域を想定。
⑭寒川辰清
 1697-1739 江戸時代中期の儒者,国学者。
元禄(げんろく)10年11月7日生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)膳所(ぜぜ)藩士。藩儒となり,侍講もつとめた。享保(きょうほう)19年「近江輿地誌(よちし)」を完成させた。
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