世の中で起こる おかし〜なと思ったことを書いてみます。
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昭和9年時点のデーター
鎮座地 東伯郡舎人村大字宮内字宮坂ノ一 ( 現在・鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754 地図 祭神 建葉槌命 相殿 下照姫命 事代主命 建御名方命 少彦名命 天稚彦命 味耜高彦根命 由緒 創立年月不詳ならざれど、仁明天皇承和四年従五位下に叙せられ、文徳天皇斉衡三年従五位上を授けらる、延喜の制小社に列し、 朱雀天皇天慶三年従三位より正三位に進む、後本国の一宮と称す。白河天皇承歴四年六月御トに倭文神の崇あるを以て社司に中祓を科せらる、後正一位に叙せられしにや現に正一位伯州一宮大明神と刻せる古き勅額を所蔵す、本社の東南に御座所平、又勅使屋敷と称する所あり、往古勅使参向の遺跡なりと云ふ。当社には神宮寺ありて天台に属し、堂塔僧帽等多く龍徳寺之れが主管たりしといふ、現に寺山、正来、堂山、堂前等の字を存し、寺屋敷、龍徳寺屋敷、護摩堂屋敷等の遺跡を存せり、毛利氏の時寺領地三千石を給せられしが、羽柴秀吉に没収せられ、此の時各寺院も離散するに至れり、旧記に拠るに、往古の社殿は壮麗にして八十余の末社をも有し、千石の御朱印地を領したりしと。 奉仕の神職も又夥しく正神主は国造なりしとも言ふ、今猶国造屋敷、国造橋、末社屋敷等の名称残れり大永年中兵燹に罹り社殿焼失、社領も没収せられしが、天文二十三年尼子豊後入道宗勝之れを復旧す、天正兵乱の際吉川の 諸将馬山に在陣するや、社人を逐うて当社に籠居せしが、羽柴秀吉御冠山に肉薄せしとき、吉川元信当社の霊夢に感じ神威を恐れ幣物を奉りて厚く崇敬せり羽衣石城主南條元続当社の荒廃を嘆き再興を計り崇敬浅からず、神領を改め新地を寄せ代官貝屋青木の両人をして社領の監査に従はしむ、慶長五年又災火に罹り社殿烏有に帰す、寛永の始新たに社殿を造営す、同十年十一月国主池田氏社領四万九斗二升を寄進す、寛永二年本殿再建の工を竣るや国主池田詩り白銀十枚を奉納せらる、その後社殿大破し先例に依り宮の允許を得て伯耆国内に資材を募り、文化十五年竣工す、今の本殿是なり、神楽渡御も昔時は春秋二回盛に行ひしが、天正の頃より中絶せしを、延享二年四月再興せしが、山内固めとて藩老和田氏より警護の士鉄砲六人づつを附せらる。 当社の末社は八十余社ありしが、戦乱の為に破壊せられ、嘉永年度には僅かに十二社存せしが、明治維新の際廃せられ更に早稲田社、藤津社、長江社、北野社、宇野社、宇谷社、の六社を付属摂社と定めらる、続いて社号を倭文神社と改められ、縣社に列す、明治四十年二月三日神饌幣帛共進神社に指定せらる。大正四年十二月旧境内字御参所より仏像古鏡経筒等を発掘す、康和五年の銘あり大正九年四月出土品全部を国宝に編入せらる。 例祭日 5月1日 建造物 本殿、祝詞舎、拝殿、透塀、神楽殿、神饌所、数寄屋、神輿庫、随神門、社務所、手水台 境内坪数 3915坪 氏子戸数 521戸 |
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