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高御産巣日神(1)
 この記事は、【古事記を考える】の本文を書くための私の資料です。 意味が不明の時は、読み飛ばしてください。

、【古事記を考える】は、http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/?
 に掲載中です。

この神はどのように読むかは、判っていません。 高御産巣日神の名前で、検索しますと、ウィキペディアでは、「タカミムスビ」のタイトルを与えています。

 以下、内容も拝借します。
『古事記』では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊尊と書かれる[2]。また葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で登場する[2]。

葦原中津国平定 する時、天菩比神の派遣を相談する場面を次の様に記します。
高御産巣日神・と天照大御神は天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。思金神(おもいかね)と八百万の神が相談して「天菩比命(あめのほひ)を大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。高木神と天照大御神は天菩比命に大国主の元へ行くよう命じた。しかし、天菩比命は大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻らなかった。
この部分の事から、高御産巣日神と天照大御神は、同じ位の力があったのではないかと推察します。その根拠は、
この少し後に、今度は、天若日子を派遣する記事があります。此処では、高御産巣日神・と天照大御神の順序が、逆になって、「故ここに、天照大御神、高御産巣日神、また諸の神等に問ひたまひしく・・・」とあります。
 根拠としては、少し弱い様に思われます。
それよりも、高御産巣日神の別名として高木神をどうして、太安万侶は使ったかが気になりますが、不明です。
ウィキペディアでは、次の説明があります。
別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である[1]。女神的要素を持つ神皇産霊神と対になり、男女の「むすび」を象徴する神であるとも考えられる[1]。
 この文章は、なんら根拠がありません。神格化という言葉は、他の方の文章に使もわれていますが、これも間違いでしょう。
 
 そんなことよりも、高御産巣日神は「獨神と成り、身を隠したまひき」とあります。神格化されたどころか、人間だったのでしょう。あまりにも立派な行動をされたから、神として祀ったと云うことでしょう。


 次の部分は、正しいし、重要な事実だと思います。
『古事記』によれば、天地開闢の時、最初にアメノミナカヌシが現れ、その次にカミムスビと共に高天原に出現したとされるのがタカミムスビという神である[1]。子にオモイカネ、タクハタチヂヒメがいる[1]。



神産巣日神(6)
 神産巣日神はどのような人かは分からないのですが、神産巣日神の息子である少名毘古那神は、留学していて、帰国したときの様子が、『古事記』に次のように書いてありました。

 故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」

 「自波穗」とは、どのような波なのか判りませんが、稲穂の穂先の様に尖っている波だったと思われます。小さな波ですと、細波、小波、漣、でしょうか。結構大きかった波と思われます。
 どのような船に乗ってかと云いますと、「乘天之羅摩船而」と書いてありますから、天之羅摩船に乗ってきました。
 古事記では、これに似たものとして、「天の沼矛」「天の詔琴」「天の班馬」が出てきます。
他にも「天の浮橋」もありますが、こちらは「高天原」と関係があるときは、「アマ」と読むように、太安万侶は、注意書きを添えました。
 
「天之羅摩船」の天は、「天の沼矛」「天の詔琴」「天の班馬」の天と同じですが、太安万侶は、どの様に読むかは、記していません。
「天」は、漢字では、「テン」です。ほかには、「アマ」「アメ」と読みますが、使いかたとしては、他には余りありません。
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神産巣日神(6)
神産巣日神はどのような人かは分からないのですが、神産巣日神の息子である少名毘古那神は、留学していて、帰国したときの様子が、『古事記』に次のように書いてありました。

 故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」

 「自波穗」とは、どのような波なのか判りませんが、稲穂の穂先の様に尖っている波だったと思われます。小さな波ですと、細波、小波、漣、でしょうか。結構大きかった波と思われます。
 どのような船に乗ってかと云いますと、「乘天之羅摩船而」と書いてありますから、天之羅摩船に乗ってきました。
 古事記では、これに似たものとして、「天の沼矛」「天の詔琴」「天の班馬」が出てきます。
他にも「天の浮橋」もありますが、こちらは「高天原」と関係があるときは、「アマ」と読むように、太安万侶は、注意書きを添えました。
 
「天之羅摩船」の天は、「天の沼矛」「天の詔琴」「天の班馬」の天と同じですが、太安万侶は、どの様に読むかは、記していません。
「天」は、漢字では、「テン」です。ほかには、「アマ」「アメ」と読みますが、使いかたとしては、他には余りありません。
 と言うことは、太安万侶が、古事記で始めて「高天原」を使ったのではないでしょうか。

 「天之羅摩船」は、現在、中国で雲南省と呼ばれている所は、「滇」と云いました。当時は、この国では、漢字は使われていませんでしたから、最近作られた漢字ではないかと思います。
 「滇」は「テン」と読みます。「天之羅摩船」は、雲南省あたりで使用されていた船と思われます。
 羅摩船の羅摩は、ラマ教のラマではないかと推理しています。
どのような船かと云いますと、例えば、ヤクを想像しています。ヤクの皮を使った船は、実際に在ります。

ヤクは、3000年前から、利用されていたチベットの牛ですが、どの様に使われていたかは、
草原・山岳の舟 ヤク
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~tanzawa/yak/yak.htm
をご覧ください。

 日本には、多くのチベットの苗族の人が、古くからやって来たのではと考えています。 連れてきたのは、天照大御神
と神武天皇ではと推理しています。

最後は、「內剥鵝皮剥爲衣服」、を着ていたと有ります。
 是は、蚕の繭も蓑虫のような物を推理しています。此れらの者を丁寧に継ぎはぎしますと、着物状になるのではと思います。
 チベット、標高の高い所ですから、相当寒いと思われますが、繭ですと、使用に耐えれると思います。

 如何でしたか。では、神産巣日神は、チベットの人かと云いますと、そうではなくて、ユダヤ人ではないかと考えてます。

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少名毘古那神 (スクナビコナノカミ)
この神は、『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、
『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

 この事は、歴史を解明する時に、もっとも重要な点です。
上の文章は、ウィキペデイアに書いてあった文章を拝借しました。

 これほど大きな間違いは有りません。
『古事記』では、少名毘古那神と書いてあります。現在は、日本書紀は、日本の歴史書として捉えられています。古事記は、偽書とされています。
 なぜ、偽書か解りませんが、古事記に本当の事がかいてあると思われる方は、一人も居られないと思います。
 古事記では、少名毘古那神の辺りの記述は、神話であって歴史とは考えられていません。
 私は、逆で、古事記を始めて目にした藤原氏の人達が、日本書紀をつくり、古事記は、消し去ろうとしたと考えています。
 そこで、古事記に、神産巣日神と書いてあったのを神皇産霊神と書き直したと考えています。

以下、古事記にはどの様に書いてあるかを記しておきます。最初に登場したときの文章です。 少名毘古那神に関しては、この部分が全てです。

故、大國主神坐出雲之御大之御前時、自波穗乘天之羅摩船而、内剥鵝皮剥、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言【自多下四字以音】「此者久延毘古必知之。」即召久延毘古、問時、答白「此者神産巣日神之御子、少名毘古那神。」【自毘下三字以音】故、爾白上於神産巣日御祖命者、答告、「此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。【自久下三字以音】故、與汝葦原色許男命爲兄弟而、作堅其國。」故、自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國、然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。
 於是大國主神愁而告、「吾獨何能得作此國。孰神與吾能相作此國耶。」是時有光海依來之神。其神言、「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」爾大國主神曰、「然者治奉之状奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。此者坐御諸山上神也。」

於是大國主神愁而告、「吾獨何能得作此國。孰神與吾能相作此國耶。」是時有光海依來之神。其神言、「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」爾大國主神曰、「然者治奉之状奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。此者坐御諸山上神也。」

故、大國主神が 出雲の御大(ミホ)の御前(ミサキ)に坐す時、波の穗自(ヨリ)天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘り而(テ)、鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで、衣服に爲(ナ)して、歸り來る神が有る。ここに其の名を問え雖も答えず。且つ所從う所の諸神に問え雖も、皆、不知と白(モウ)す。ここに、多迩具久(タニクク)が言うてもうすには、「此は久延毘古(クエビコ)が必ず知っている」と。即に、久延毘古を召して問うた時に、「此は神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子。少名毘古那神(すくなびこなのカミ)です」と答えて申しました。

ここに、神産巣日の御祖命(ミオヤノミコト)にもうし上げると、答えて告げられました。「此は實の我子也。子の中に於いては、我の手の俣より久岐斯(くぎし)子がいた。だから、汝と葦原色許男命は兄弟となって、其の國を作り堅めよ」と言われました。
故にそれからは、大穴牟遲と少名毘古那と二柱神を相い並んで、此の國を作り堅めました。然て、その後は、其の少名毘古那神は、度于常世國(トコヨノクニ)に渡りました。そして、其の少名毘古那神を顯わし白した所謂、久延毘古(クエノヒコ)は、今は山田の曾富騰(ソフド)也。此の神は足は使えないと雖ども、盡く、天下の事を知っている神也。
ここに大国主神、愁ひて告りたまひしく、「吾独して何にかよくこの国を得作らむ。孰れの神と吾と、能くこの国を相作らむや」とのりたまひき。この時に海を光らして依り来る神ありき。その神の言りたまひしく、「よく我が前を治めば、吾能く共與に相作り成さむ。若し然らずば国成り難けむ。」とのりたまひき。ここに大国主神曰ししく、「然らば治め奉る状は奈何にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭をば倭の青垣の東の山の上に拝き奉れ。」と答へ言りたまひき。こは御諸山の上に坐す神なり。

以下、少名毘古那神のことを掲載しますから、参考にしてください。
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神産巣日神(5)
少名毘古那神が、あらわれた時の様子を、太安万侶は、古事記に次の様に書きました。

 「大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之」

「大國主神、坐出雲之御大之御前時」 この部分の「御大之御前」は何所かと云いますと、「御」はどうやら、「み」と読むらしい。そうすると 「御大之御前」は、「みおおのみさき」と読めそうです。「美穂の御崎」となりそうです。(現在、「美穂の御崎」、美穂岬)は有りません。
 しかし、どうして、大國主神は、「美穂の御崎」に居たのでしょうね。 それは簡単です。出雲に近い所にいたからです。九州ではなかったことが分かります。

 少名毘古那神との出会いの所では、「大国主神」と書きながら、神産巣日神が言った言葉の中では、
「汝葦原色許男命と兄弟となって、その国を作り堅めよ」と古事記に記しています。
「 それより後には、大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまいき」と、三つの名前を書いて、読む人に、注意をするようにと太安万侶は記した事になります。

 殆どの人は、ここは無視して居られます。次の方は、苦労して、挑戦して居られます。
綿を積む船 と 棋験法の旅立ち 
http://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/kyuu3.htm

「汝葦原色許男命と兄弟となって、その国を作り堅めよ」の部分の、「その国を作り堅めよ」
は、強い決心をもって、国作りをしなさいと云う文章になっています。
 ただ、全国を遊説するようなものではなかった筈です。大国主神は、どこへ遊説したのか確かめる必要があります。


参考記事、「少名毘古那神と国作り」 これは、私が以前に書いたものです。
これは、(4)まで続きますから、お読みください。大切のは、大物主命は、ナニモノだという話に行きつきます。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page409.html

古事記の第一巻は神話ではなかった
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2004/12/post_13.html
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神産巣日神(4)
神産巣日神は少名毘古那神のお父さんであることが判りました。

少名毘古那神がラマ船に乗って現われたときに、何者であるか誰も知りませんでした。久延毘古が知っていました。古事記が書かれた時には、山田の中で、案山子として立っていました。
どうして、このようなことが書いてあるのでしょうか?

先代旧事本紀という書物があります。その序文によると、推古天皇の二十八年(620)に勅によって、聖徳太子が蘇我馬子とともに撰定したものとされます。しかし、実際の成立年代は、平安初期と考えられ、偽ものだという説もあります。この書物の先代旧事本紀卷第四の地祇本紀のなかに、次の文があります。

大己貴神之平國矣.行到於出雲國之御大御前而且當飲食之時,海上忽有人聲.乃驚而求之,都無所見. 于時,自浪穗乘天蘿摩船而有一箇小男,以白?皮為船,以鷦鷯羽為衣.亦??鵝皮?為衣服.隨潮水以浮到于大己貴命所.而取置掌中而翫之.則跳囓其?.乃恠其物色,爾雖問其名,不答.且雖問所從諸神,皆為不知.
 爾,多邇且久白言:「此者久延?必知之.多邇且久者,蟾蜍也.」即召久延?問時,答曰:「此者神皇?靈神之御子-少?名神.」故爾白上於天神之時,神皇?靈尊聞之曰:「吾所?兒凡有一千五百座.其中一兒最惡,不順教養,自指間漏落者.必彼矣.故與汝葦原色男為兄弟,宜愛養矣.」即是少?名命是也.
 所謂久延?者,於今者山田之曾富騰者也.即,案山子,稻草人也.此神足雖不行而盡知天下之神者也.

古事記と異なる部分を取り出しますと、「自浪穗乘天蘿摩船而有一箇小男」 「以白?皮為船」
「以鷦鷯羽為衣」 「多邇且久者,蟾蜍也」  蟾蜍はヒキガエルのことです。 ?はあつめるという意味です。
岩波文庫に書かれている注釈は、すべてここから取られたと思われます。先代旧事本紀は偽ものであると言われだしたのは、江戸時代で、私にはよく判りませんが、日本書紀と古事記と古語拾遺の本をもとに作られたとの説があります。古事記を参考にしたにしても、先代旧事本紀を書いた人は、古事記のままでは意味が通らないので、「谷蟆」という漢字は使わないで、「蟾蜍」にしたことになります。
久延毘古がなぜ 曾富騰(案山子)として田んぼにあるのか説明がありません。中国の華北において、現在では、案山子はないそうです。案山子はなんでも知っているという伝承を伴って、稲作が伝わったと考えられます。
ただし、案山子は田の中に立って居て、他の事しか知りませんから、少名毘古那命は稲作も勉強してきたと思われます。
太安万侶は、少名毘古那神は、病気と稲作のことを勉強して来たことを記録に残したかったのだと思います。
 産巣日は生産を意味するから、「創造」を神格化したものであるというような、説明は間違っていると思います。地球が誕生した時に、三人の想像の神が、生まれたという日本書紀に書かれた歴史も間違っています。
では、日本に帰って来てからの少名毘古那神はどのような活躍をしたのかは、どの歴史書にも書いてありません。
少名毘古那神は大国主神と二人で、全国を回って知識を広めました。その時の功績を讃えて、神社でお祭りをしたことになります。

少名毘古那神はどの様な人であったかは、現在残っている少名毘古那神を祭神とする神社を眺めれば、有る程度は、判るのではないかと思います。


久延毘古は米子市内の目組神社に祭られています。少名毘古神はその近くの粟島神社に祭られ、村の名前は彦名村です。
伊勢の苗代神社の祭神は、少名彦名命です。(名前の表記が、少名毘古神ではありません)
蒜山高原の苗代の地名の近くの徳山神社にも祭られています。少名毘古命は、苗族の人たちからいろいろの事を学んで帰国したと思われます。

久延毘古は米子市内に住んでいたのでしょう。
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まとめ
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